ブラインドゴルフの誕生と発展

米国で誕生したブラインドゴルフ

1996年イギリス、ブリティッシュオープン
1996年イギリス、ブリティッシュオープン
1996年イギリス、ブリティッシュオープン入賞選手
1996年イギリス、ブリティッシュオープン入賞選手

 USBGA(全米ブラインドゴルフ協会)は、1937年にアメリカ合衆国におけるブラインドゴルフの普及と発展のために設立されました。

 米国内のみならず、イギリスブラインドゴルフ協会、オーストラリアブラインドゴルフ協会と連携して、国際大会の運営・実施をはじめとした、さまざまな活動を世界規模で精力的に行っています。日本でも、1988年に「ブラインドゴルフ倶楽部」(JBGAの前身)発足を機に、パートナーシップがより緊密になり、確固とした協力関係を築いています。

 全米ブラインドゴルフ協会の古い歴史が示すように、ブラインドゴルフはアメリカを発祥の地としています。1924年(大正13年)に、事故で失明したミネソタ州クリント・ラッセルが、たぐいまれなチャレンジ精神でゴルフに挑んだのが、ブラインドゴルフの歴史の幕開けでした。困難にめげず練習を続けたラッセルは、1930年には18ホールを84というスコアで回ることができるようになり、この記録は、2年後に刊行されたロバート・リプライの“Believe It or Not”にも紹介されています。

 その後ロンドンでも、ビーチ・オクセンハム博士がブラインドゴルフを始めて普及のきざしを見せ、1938年の8月20日、ミネソタ州リッジビュー・カントリークラブで、世界最初のブラインドゴルフ大会・USブラインドゴルフチャンピオンシップが開催されました。この試合では、ラッセルがオクセンハム博士を破り、初代チャンピオンの栄冠をかちえています。

 第2回の全米ブラインドゴルフチャンピオンシップは、1941年に開催されましたが、第3回は第二次世界大戦の影響で中止となりました。しかしその後、この戦争の負傷者のために、クリント・ラッセルが国に働きかけてブラインドゴルフを勧め、以来、ブラインドゴルフは失明した元軍人の社会復帰の手助けを果たしています。

 先駆者の努力の甲斐あって、ブラインドゴルフの福祉的・社会的意義は次第に認められ、またトーナメントの話題性が普及に役立ち、米国各地でゴルフにトライする視覚障害者が増えていったのです。組織を援助する人々の和も全米に広がり、発祥の国にふさわしく技術レベルも驚くほど向上していきました。

 前全米ブラインドゴルフ協会会長パット・ブラウンは、通算14度の優勝を飾った優秀なブラインドゴルファーで、74というベスト記録(ミッションヒル・カントリークラブ)の保持者です。本業は弁護士で、貯蓄・ローン協会会長も務め、1989年には、そこに登場することが一流スポーツマンの証明とされる“Sports Illustrated”誌に紹介され、またNike社のテレビコマーシャルにも出演しました。

 現在、全米ブラインドゴルフ協会は年4回のトーナメントを定期的に開催しており、そのうち1回が、毎年ディズニーワールドで行われる全米チャンピオンシップとなっています。

 1990年の第40回大会では、18人のブラインドゴルファーが参加し、技術とチャレンジ精神を競うことになりました。また、プロゴルファーのペイン・スチュワートも特別出場。目かくしをして、パット・ブラウンらと9ホールの試合を行い、マスコミの注目を集めました。結果はブラウンが42、スチュワートが60で、ギャラリーから両者に惜しみない拍手がおくられました。

 1997年、第47回全米ブラインドゴルフチャンピオンシップが開催されましたが、大会は多くのスポンサーの支援のもとにチャリティとして行われ、収益金は網膜炎障害基金に充てられています。プレーヤーとその家族、友人、コーチらがひとつになり、ハンディを克服しようとする姿は、失明した人への勇気づけとなるだけでなく、さまざまな障害を持つ人びとと、そして家族の希望の光でもあります。

 ブラインドゴルフは、たんにゴルフとして発展するだけでなく、新しい福祉活動として注目されています。さらに、視覚障害者の確実な生きがいとして根づきはじめているのです。